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第1章 上海からの引き揚げ

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きもの英・創業物語
~ 聞き書き・武田豊子一代記 ~​

第1章 上海からの引き揚げ


母は昭和4年、東京に生まれ、多感な少女期を中国・上海で過ごしました。一人娘だった母は幼い頃は身体が弱く、祖父母が上海で理髪店を営むべく海を渡る時には、向こうは空気が悪いからと日本の曾祖母のもとに留め置かれたそうです。その後、神戸での療養を経て、祖父母の待つ上海に曾祖母とともに渡ったのは小学校4年生の時でした。

当時の上海は賑やかな国際都市で、祖父の理髪店は中国人従業員を7、8人抱え、順調に営まれていました。母はすぐに新しい環境になじみ、楽しく日々を過ごしました。しかし一方で時局は徐々に悪化、母が中部日本小学校を卒業して上海女子商業学校に入学する頃、太平洋戦争へと突入していきます。数えの16歳で学校を繰り上げ卒業し、三菱商事上海支店に入社するも、1年半勤めたところで終戦。一家は昭和21年、母18歳の時に慌ただしく日本に引き揚げることになりました。

引き揚げ時に許された持ち物は、一家で行李がひとつ、あとはリュックと手荷物のみです。着ているものはその限りにあらずということでしたので、母は絹のストッキング3枚、靴下を2足…と、身につけられるだけの下着をつけ、セーターやカーディガンを重ね着し、さらにレインコートとコートを羽織った上にリュックを背負い、雑嚢を両脇に下げ、両手にボストンバックといういでたち。荷物の中には、明日からすぐにでも困るであろう米、砂糖、パン。そして訪問着、振袖、お召しの着物、丸帯に名古屋帯3本を詰め込みました。「きっと焼け野原で何もない日本に帰るのだから、せめて着物くらいなければお嫁に行くとき困るだろうと思って。娘らしい発想だったわね」と、後年、母は振り返ります。現に戦後の食糧難で何度もお米に代わりそうになるところを、手放したくない一心でがむしゃらに働き続けたのでしょう。楽しかったこと、つらかったこと、うれしかったこと…さまざまな思いが染み込んだ着物たちはその後も大切に保管され続けています。
こうして上海を引き揚げた一家は九州の鹿児島にたどりつき、ひと足早く帰国していた曾祖母の待つ長崎へと向かいました。実はまだ上海にいる時、長崎に大きな爆弾が落ち全滅したという情報に、一時は悲嘆にくれた母たちでした。しかしその後、曾祖母から無事の知らせが届いたのです。そして家族は長崎で無事に再会を果たし、しばし感涙にむせびました。