第2章 ナイロン・テグスの行商
きもの英・創業物語
~ 聞き書き・武田豊子一代記 ~
第2章 ナイロン・テグスの行商
上海からの引き揚げ後は、しばらく長崎の親類に一間を間借りし、母と祖父母、曾祖母の一家4人で生活を始めました。しかし頼るべき祖父は、上海で築いたものが何もかも無に帰してしまったことで精根尽き果て、すっかり元気をなくしていました。このままでは苦労して持ち帰った着物が米に代えられてしまうという危機感に駆られた母は必死に働き、糊口を凌いだといいます。やがて引き揚げの翌年の昭和22年春、一家は福岡の戦災者住宅に移り住むことになりました。まず仕事をということで祖父が上海時代のつてを頼り、大阪まで相談に行って勧められたのが、新発売されたナイロン・テグスという釣り糸を、漁場をまわって売る仕事です。結局、働く意欲が戻らない祖父に代わり、母が引き受けることになりました。昭和22年5月、18歳の時のことです。それが母と合繊の初めての出会いであり、のちに洗える着物の専門店を営むきっかけともなったのですが、これはもう少し先のお話です。
福岡に戻ると、母は早速リュックにナイロン・テグスを入れ、漁場から漁場を売り歩きました。もちろん漁場に知り合いなどいませんでしたが、漁港にある漁具店や漁業協同組合を訪ねて歩きました。当時は釣り糸といえば天然繊維があたりまえの時代。ナイロン・テグスはなじみが薄い上、高価だということもあって、最初はなかなか思うように売れません。それでも母は、ある時は荒波の玄界灘を渡り、ある時は軍用トラックに揺られ、九州中の漁場をまわりました。配給の軍服の上に男物のオーバー、防空頭巾に長靴という格好で、大きな荷物を抱えて移動する母は、時に男性に間違われたこともあったそうです。戻って笑い話として曾祖母に伝えたら、オイオイ泣き出されてしまって弱ったということも聞きました。
しかし、「よくもまあ女の子が一人でこんな大きな荷物を抱えて…」と半ば感心し半ば呆れた漁師さんがたくさん買ってくれたこともありました。販売会社から直々に、感謝の電報が届けられたこともありました。こうしたなかで、母は物を売る歓び、商売のおもしろさを全身で感じ始めたと語っています。また、お得意様が増えるとともに、そのあたたかさにふれる機会にも恵まれ、おおいに励まされたそうです。たとえば訪ねると必ずおにぎりとお茶を振るまってくださった鹿児島の漁具店さん、いつも熱い白御飯に生卵をかけて食べさせてくれた佐賀ノ関の漁具店さん、行くたびに御飯をご馳走してくださった長崎の漁具店さん…戦後の食糧事情もままならない中で受けた心づくし、その人情のありがたみは、ずっと母の心の奥深く刻まれ輝き続けています。つらく苦しかったことさえ、歳月を経ることで懐かしい思い出となったのでしょう。