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第6章 父の病と退職金

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きもの英・創業物語
~ 聞き書き・武田豊子一代記 ~​

第6章 父の病と退職金

前回のお話と前後しますが、大阪勤務を命じられた時、母はすでに福岡県庁に勤める父と結婚していました。父は当時、母と出会った水産課から配置が替わり福岡県工業試験場で織物や染色の技師をしていました。そこで会社や家族と相談した結果、その技術を生かせる技師として、母の勤める会社に入社させていただくことになりました。といっても10年間勤めた県庁をすぐに退職することはできません。県庁での残務処理を終えてから入社して大阪に行くことになり、母は一足先に一人で大阪に入ったのです。そして結婚翌年の昭和30年、ようやく父が合流し、新生活がスタートしました。
仕事も家庭生活もスムーズに動き出し、順風満帆に見えた日々。しかしそんな日常に突然影がさしたのは、それからほどなくのことでした。桐生に出張に行っていた父が、帰りの汽車の中で喀血して倒れ、そのまま大阪・枚方の病院に入院してしまったのです。かつては死の病と恐れられていた結核も、この頃には幸いなことに治療法が確立されていましたが、長期の療養は必須でした。当時、大阪の家には曾祖母と叔母も同居していて、家族全員の生活が母の肩にかかることになりました。それでなくても店長としての仕事は激務で、平日は朝7時半に家を出、帰宅は午後11時近くになります。日曜日ごとに枚方の病院にお見舞いにいき、洗濯物を持ち帰らねばなりません。父の入院費と家族の食費をまかなうのに生活費もギリギリで、この時ばかりは母も心身ともに疲れ果てたといいます。
そんな時に、県庁から父に退職金として8万8千円が支給されました。毎月の給料が1万4千円くらいだった時代、まさに窮地を救ってくれる大金です。しかし母はそこで「もし今ここでこれに手をつけてしまっては、すぐ生活費に消えてしまう。だったら最初からないものと思って、手をつけるまい」と決心したのです。そしてそのお金で生駒に80坪の土地を購入しました。むろん、母は不動産に関してはまったく素人です。万が一でもだまされたら、すべてを失くしてしまいます。それでも「どのみち生活の中で消えてしまうのだったら何かに賭けてみようと思った」と意志を貫いた母でした。一世一代の大英断だったと、今になれば思います。その土地は後年、母が独立して商売を始める時の資本金になりましたし、さらにもっと貧しい時代を乗り越える心の支えにもなったのです。

日本が戦後の復興を遂げていよいよ高度成長期にさしかかり、次々と新しいものが生まれはじめている、そんな時期のことでした。