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第7章 ナイロン・ショップ時代

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きもの英・創業物語
~ 聞き書き・武田豊子一代記 ~​

第7章 ナイロン・ショップ時代

母が大阪に出て3年後の昭和33年、今度は東京への転勤を命じられました。病気の夫と曾祖母、叔母を大阪に残し、後ろ髪引かれつつも、会社の期待に応えたいという一途な思いを抱えの上京となりました。

新しい職場は銀座4丁目のナイロン・ショップ。華やかな都会で、習慣や言葉の違いに戸惑いながらも、母は先頭に立ってディスプレイから商品企画まで、さまざまなアイデアを実現していきました。そして次々とヒット商品を世に送り出すことになります。

最初にヒットしたのは、シャルマンという少し地厚で羽二重風の風合いがある生地でつくった無地の着物に、スカーフやレースを張りつけたものでした。次に流行した「おしゃれコート」は、紗のような風合いの生地に花柄や水玉模様をフロック加工し、道行きに大きな衿がついた形だったそうです。それを着て店に立っていたところ、週刊朝日のファッショングラビアページで紹介されたのも、母の誇らしい思い出です。また、資生堂の美容部員の制服デザインコンテストに応募したところ採用され、千着以上の注文で嬉しい悲鳴をあげたことも、当時の快進撃ぶりを物語るエピソードでしょう。

さらに空前のヒットとなったのが「イタリアお召」です。生地はクリンプナイロン30パーセント、レーヨン70パーセントの大島風の織物。それまでは広幅の生地で着物をつくっていたのを、これは最初から着物専用に小幅に織った生地を使用したのも特徴でした。一反が1650円と安価なこともあり、それこそ飛ぶように売れたそうです。当時銀座では、短い茶羽織とのアンサンブルが流行っていました。一反半あればそれがつくれるというので、反物を半分に裁ったものと一反とを同じ柄同士紐でくくってワゴンに入れ店頭に出すと、1日に20反、30反と売れていったそうです。

こうして仕事も軌道に乗った頃、病の癒えた父も、曾祖母と叔母を伴って上京し、会社に復帰しました。当初の2年間は練馬区の大泉学園に住んでいましたが、手狭で難儀していたところ、運良く抽選で保谷市の東伏見団地に入居できることになりました。団地といっても、当時は文化住宅と呼ばれていた2階建ての家を横に5、6戸くっつけたような長屋形式のものです。そこには結局、17年の長きにわたって住むことになりました。

こうして息をつく間もなく働いた銀座のナイロン・ショップ時代に、母はさまざまな方とのご縁に恵まれ、やがて独立して自分で商売を始めることにつながっていきます。