故郷・大分県では、高校時代から落語少年として注目を浴び、1995年、高校卒業と同時に三代目三遊亭圓歌師匠に入門。将来を嘱望される若手として徐々に頭角を現し、数々の受賞にも輝いてこられました。2008年に真打昇進とともに名跡「歌奴」を襲名。落語通をうならせる堅実な芸ながら、謙虚さを失わない師匠です。
初舞台でウケて落語に開眼
きっかけは、中学時代の必修クラブ選択でジャンケンに負けて人気のなかった落語部にまわったこと。人前に出るのが苦手で、高座も逃げ回っていたのに、中学2年の文化祭で全校生徒の前でしぶしぶ披露した落語が大ウケして快感をおぼえちゃったんですね。以来、生活は落語一色に。高校は落語部がなかったので、友人とふたりで老人ホームに押しかけ慰問なんかをしていました。これが新聞に載って、以来あちこちからオファーが殺到。そのうちラジオにまで出るようになり、地元じゃちょっとした有名人に。落語家になる決意も固いところに、大分放送から「落語家になれるかどうかのドキュメンタリーを撮りたい」と依頼が来て、密着取材が入りました。結局、番組スタッフにも助けられ反対していた親父を説得、上京して鈴本演芸場に尊敬する三遊亭圓歌師匠を訪ね、弟子入りの約束をとりつけたのが高校3年の夏休みのことでした。
噺の雰囲気を保つ努力
翌年3月3日に上京し、内弟子修行がスタート。兄弟子やおかみさんに、生活や家事の基本から教わりました。うちの師匠は天才なので、落語を教わるというより筋の通った言動から芸人としてのあり方を示していただきましたね。やがて真打という時に、襲名を打診された「歌奴」は、もともと師匠の前の名跡。大人気だったネタ「山のあな、あな…」を連想する人は多いでしょう。自分が背負うにはあまりにもイメージが違うと、最初は断ったんです。でも師匠は「俺と同じことをやることはないし、俺よりうまくやれないんだから心配しなくていい(笑)」と言ってくれて。気負わずに受けることができました。今も、偉くなりたいとか有名になりたいとかではなく、自分にできることをやっていこうという思いは変わっていません。心がけているのは、無理をして面白いことをするのではなく、入れ事などで多少逸脱してもすっと元の世界に戻れる筋の通った落語。昨日より今日、今日より明日と、少しずつうまくなれればと思っています。
私のお気に入り
真打ち昇進を記念して舞台映えする色を
1995年の入門から前座、二ツ目を経てようやく真打に昇進できたのが2008年。同時に大名跡「歌奴」の四代目として襲名することが決まり、記念に誂えた思い出深い五つ紋の色紋付です。思い切ってこの黄色と、もうひとつピンクの2組をお願いしました。それまではあまり明るい色や派手な色を着たことがなかったのですが、着てみると気持ちが上がることに気がつきました。舞台にぱっと映える感じもいい。新しいスタートの背中を押してくれたという意味でも、特別な思い入れがあります。
渋めの色柄も意外としっくり
昔から渋めの芸が好きで、落ち着いた色柄を選ぶことも多いです。シンプルな縞も粋だし、茶系の小紋も渋みがあって、羽織を合わせると憧れの(九代目)入船亭扇橋師匠っぽいなと、あくまで自分の中でですが(笑)思うんです。私は新しく誂えると気に入って同じのばかり着ちゃう傾向があるので、手持ちのものとの組み合わせるアドバイスがいただけるのが、とてもためになります。へえ、こういう組み合わせもありなんだという発見できて、楽しいですね。
落語家ならではの?長襦袢
これは…凄いでしょ?色もさることながら、とても素人には着られないこの柄がね(笑)。私も初めて見た時は思わず「おおっ!」と声が出ましたから。長襦袢だから高座では動いた拍子に袂や裾からチラッとしか見えないので、隠れたおしゃれですね。廓噺など、色っぽい系の噺をする時などは気分も乗ります。楽屋ウケがいいのも、ご愛嬌ですね。